現在の崇福寺中心伽藍跡
遺跡は3度の調査が行われ四王寺山裾の谷地を利用し、現在の横岳池の南に礎石建ちの仏殿と僧堂がL字に配された形状で確認された。建物の想定は江戸期に描かれた『太宰府横嶽山諸伽藍図』(元和4年図の写し)による現地地形との比較に基づいており、それによれば中心伽藍は四王寺山の南斜面に南北軸を想定し大門、山門、仏殿、法堂、方丈が直線的に並ぶプランとなる。僧堂は仏殿の西に隣接する。
調査では仏殿ないし法堂に比定される建物と僧堂に比される建物が検出されている。仏殿は上下2層の2時期のものが確認され、古段階のものは砂地を整形し赤土のタタキでもって東西14।7m、東西19।3mの基壇を形成し礎石を置いている。基壇裾は自然石の乱積み。礎石は3つしか残されておらず建物平面プランは定かでないが、5間、16।3m四方の正方形に近い案が出されている。礎石には柱の据えた痕跡がありいわゆる路盤の使用は無かったと見られている。瓦も出土せず板葺ないし桧皮葺であったらしい。推定僧堂とは比高差がありスロープで連接している。
僧堂は座禅道場としての機能が宛てられ、南北21.2m、東西13।3m以上の平入りの南北棟で5間×4間以上の柱間が想定され(西側は山の崩落により未調査)、建物北側1.8mに外護列石が並ぶ。床面はタタキで建物北側では炭化米の集積が見つかっており、僧堂としての性格に関係するものとされている。新段階のものは古段階のものが焼失した後、約20cmかさ上げして再建されと考えられているが、後代の削平のため礎石などは失われており、基壇裾の列石でその規模が拡張されていたことが判明した。この段階では鬼瓦を含めた瓦類が出土し仏殿は瓦葺であったことがわかる。新段階のものは出土した瓦類などから室町前期に比定され、創建期は鎌倉後期に遡る可能性がある。