つくしの国(九州・西海道・鎮西etc)に存在するさまざまな人とものとことにかかわるよもやまを調査・研究し収録する歴史系アーカイブ。管理責任;遊古堂

2008年1月29日火曜日

太宰府横岳崇福寺3(塔頭)


 太宰府の崇福寺では中心伽藍とは尾根を挟んだ東側の谷地で瑞雲庵跡に比定される2棟の礎石建物が検出され、さらにその南で心宗庵跡に比定される2棟の東西棟の掘立柱建物と西に隣接する丘陵部で特殊な配置を持つ石塔群が発見された。推定心宗庵跡を調査した担当者は出土遺物の傾向から建物空間が「庵」を想定させる生活空間であったと推測している。推定瑞雲庵の建物は礎石建物で推定7×3間の東西棟とその南東に3×3間、6।3m四方の小堂から成り、小堂東中央間の正面に石段が設けられその先の丘陵中位に開山塔としての大応国師を祀った無縫塔が建つ。建物は瓦葺で鎌倉後期から室町前期のものとされる。小堂は開山塔を守る昭堂、ないしはかつての開山堂。中央の建物は塔頭の生活主体であった住坊(ないしは昭堂そのもの)に想定され、禅宗寺院塔頭の典型的な配置を示している。



 推定心宗庵跡はこの推定瑞雲庵の南にあり谷部を段状造成した下段にあたる。低湿であった谷中央を版築状に盛り土造成し、柱穴の底に石を敷く掘立柱式の7×5間(12।1×7।8m)と4×3間(10×6।2m)の2つの東西棟が近接して建てられており(調査者は異なるプランを想定)、機能を分け合うような補完関係が想定される。西側の調査区外に付帯する掘立柱建物ないし柵が見られる。また、上段の推定瑞雲庵跡では開山塔がある東丘陵中位の位置に、後述する五輪塔を用いた再葬墓およびそれを覆う2×4間(3।1×3.2m)の祀堂、方形の石敷基壇を伴う火葬墓群などが検出されている。  


 このことから太宰府崇福寺の谷地の塔頭は住坊(昭堂)と考えられる中心建物および開山堂と考えられるような小堂の2棟の建物、それに隣接する丘陵中位に墳墓および祀堂が配置される構造が見られる。そして開山に係わる上位の塔頭には室町前期には礎石建ちで瓦を所要する建物が採用されていた。








2008年1月27日日曜日

太宰府横岳崇福寺2(中心伽藍)













現在の崇福寺中心伽藍跡


 遺跡は3度の調査が行われ四王寺山裾の谷地を利用し、現在の横岳池の南に礎石建ちの仏殿と僧堂がL字に配された形状で確認された。建物の想定は江戸期に描かれた『太宰府横嶽山諸伽藍図』(元和4年図の写し)による現地地形との比較に基づいており、それによれば中心伽藍は四王寺山の南斜面に南北軸を想定し大門、山門、仏殿、法堂、方丈が直線的に並ぶプランとなる。僧堂は仏殿の西に隣接する。


 調査では仏殿ないし法堂に比定される建物と僧堂に比される建物が検出されている。仏殿は上下2層の2時期のものが確認され、古段階のものは砂地を整形し赤土のタタキでもって東西14।7m、東西19।3mの基壇を形成し礎石を置いている。基壇裾は自然石の乱積み。礎石は3つしか残されておらず建物平面プランは定かでないが、5間、16।3m四方の正方形に近い案が出されている。礎石には柱の据えた痕跡がありいわゆる路盤の使用は無かったと見られている。瓦も出土せず板葺ないし桧皮葺であったらしい。推定僧堂とは比高差がありスロープで連接している。



 僧堂は座禅道場としての機能が宛てられ、南北21.2m、東西13।3m以上の平入りの南北棟で5間×4間以上の柱間が想定され(西側は山の崩落により未調査)、建物北側1.8mに外護列石が並ぶ。床面はタタキで建物北側では炭化米の集積が見つかっており、僧堂としての性格に関係するものとされている。新段階のものは古段階のものが焼失した後、約20cmかさ上げして再建されと考えられているが、後代の削平のため礎石などは失われており、基壇裾の列石でその規模が拡張されていたことが判明した。この段階では鬼瓦を含めた瓦類が出土し仏殿は瓦葺であったことがわかる。新段階のものは出土した瓦類などから室町前期に比定され、創建期は鎌倉後期に遡る可能性がある。

2008年1月22日火曜日

太宰府横岳崇福寺1(概要)

 太宰府崇福寺は臨在宗に属す寺院で、山号はその地名から横岳山を名乗る。創建は湛彗禅師により仁治元(1240)年に開かれ、翌年に帰朝した聖一国師(円爾弁円)が開堂となり、寛元元(1243)年に官寺となった。文永9(1272)年に大応国師(南浦紹明)が開山となり、その後、彼の33年間の滞在の間に伽藍が整備されたものと考えられている。天正14(1586)年の島津兵による岩屋城攻めにより全山が焼失したとされる。境内推定地内で正平22(1367)年銘の武藤資能のものと思われる供養塔が出土し、弘安3(1280)年聖一国師の手になる『東福寺条々事』に「少卿経資朝臣当時檀那として扶持す」とあり、博多承天寺同様に筑前守護職であった関東御家人の武藤少弐氏が背景となり成立した初期禅宗寺院であり、室町時代には諸山十刹に位置づけられる重要な禅寺であった。
昭和42年の発掘調査によりこの地に寺の中心建物であった礎石建ちの法堂または仏殿と僧堂がL字に配された形状で確認された。建物は上下2層の2時期のものが確認され、上層のものは出土した瓦類などから室町前期に比定され、下層は鎌倉後期に遡る可能性がある。
太宰府の崇福寺は武藤少弐氏を檀越とし初期禅宗寺院として谷地を堂舎・庵、それに接す丘陵部に石塔を用いた墳墓を形成し、それら複数の谷に各頭塔を配すことで寺域を形成していた山拠型の典型例といえる。その寺域は守護所や居館エリアに隣接し武藤少弐宗家の菩提所としての機能も果たしており、僧侶達が守護家の外交ブレーンとしての位置づけであったことも当然配慮されての選地であったと考えられる。

2008年1月16日水曜日

古代の大隅国1

 今回の西海道研では薩摩・大隅国の調査と研究の現状を、一つの大きなタイトルとして掲げてはいたが、結局、大隅国を中心とした調査事例の紹介と学史の振り返りでとどまった。
 基本的には準備会が実施できない中で事務的な調整だけで当日を迎えてしまい・・・反省しきり。
 大隅での埋文のデータは8世紀末から9世紀以降に集中しており、8世紀中葉以前においては、現状では土器編年も充分確立していない現状があり、時代相を語るにはいまひとつ資料不足の状況であった。
 しかし、薩摩・大隅そして日向にも共通することであるが、中北部九州では8世紀以降に顕在的傾向にあった支配施設である郡衙、国レベルの広域交通路であった駅路が衰退ないし廃止・縮小化に至った9世紀において、南九州では支配施設である官衙は顕著でないが、姶良町城ヶ崎遺跡で発見された官道、各地の墨書・ヘラ描き土器の出土は、中北部九州とは時間差をもってそれらが存在していることを示している。中北部九州では8世紀に顕著であった古代的要素が、南九州においては平安期に顕著になっている傾向が読み取れる。   ・・・つづく

2008年1月14日月曜日

西海道古代官衙研究会

2008年1月12日
 鹿児島県霧島市(旧国分市)の大隅国分寺跡と姶良町城ヶ崎遺跡において、平成19年度の西海道古代官衙研究会のエクスカーションがおこなわれました。

 研究会では毎年度旧西海道域において遺跡の現地見学会と研究集会を実施してきました

 今年度は鹿児島県下、特に旧大隅国域についての特集を企画し、鹿児島県埋蔵文化財センター、霧島市教育委員会、姶良町教育委員会、鹿児島県黎明館のご協力をいただき研究集会をおこなうことができました。

 霧島市の大隅国分寺跡は巨大な層塔の存在でその場所が知られていましたが、その隣地にあった公民館が移転されたため、礎石の存在などの伝承がある推定中枢域での調査がおこなわれており、過去の調査所見とあわせて現地での推定プランの概説をしていただきました。

大隅国分寺跡2  中枢域での調査






 姶良町の城ヶ崎遺跡では圃場整備事業にともなって歴史地理学の分野で想定されていた別府川西岸に沿う古代官道の想定ルートを発掘し、平安時代に想定され、新古2次期の重複が認められる道路側溝とそれに挟まれた帯状硬化面(山村Aタイプ)が検出されています。

姶良町城ヶ崎遺跡 の古代官道跡








鹿児島市天文館での懇親会(30名近くが参加で大入り満員!)










 翌1月13日日曜日の研究集会は鹿児島市の県立黎明館講座室において地元鹿児島で続いている「隼人文化研究会」と合同で実施され、5本のご発表と検討会をおもないました。
 あわせて会場では霧島市と姶良町での出土遺物が展示されました。









遺物の見学(霧島市と姶良町の遺物が展示される)

遊古堂プロフ

博多i椿屋主人。 趣味;盆栽、仏画、よもやま噺、山さるき 博多、筑紫地区、各地山岳に出没。